【インタビュー】周産期の女性に寄り添う、お守りのような場所を。助産師・川井沙織さんが施設型助産院に込めた思い
産後の女性が心身ともに回復するためのケアや育児サポートをおこなう産後ケア事業。
2021年度から市区町村の努力義務とされ、2024年に補助制度が拡充されはじめたことから必要性が高まり続けていることがわかります。
今回お話を伺ったのは、福島県福島市に施設型の助産院「ゆりかご助産院」を2022年に開業し、産後ケアや来所ケアをおこなう助産師の川井沙織さん。
ゆりかご助産院での産後ケアの受け入れは、1日につきひとり。産後の心身や育児の悩みを相談できるほか、シャワーを浴びてゆっくりと休息を取ることもできます。
利用者に寄り添いきめこまやかなケアを提供するゆりかご助産院は、予約受付を開始するとすぐに埋まってしまうほどの人気施設。
そんなゆりかご助産院を運営する川井さんに、助産師をこころざした理由、施設型助産院をはじめた経緯、これから実現したいことについてインタビューしました。
\今回お話を聞いたのはこの方!/
川井 沙織さん
助産師。福島医科大学看護学部を卒業後、東京都内・福島県内の産婦人科で助産師として勤務。東日本大震災をきっかけに地域の母子支援活動を開始し、2022年に施設型助産院「ゆりかご助産院」を開業。産後ケアや来所ケアをおこなうほか、ベビーマッサージを開催している。
幸せそうなのにどこか悲しそう。出産した姉の様子を見て助産師を志す
ーー今日はよろしくお願いします。まずはじめに、川井さんがどのようなお仕事をされているか教えていただけますか。
川井さん(以下、川井):「ゆりかご助産院」という助産院を運営しています。
産後のお母さんと赤ちゃんのケアを中心にいろいろなことをやっているのですが、メインは産後のデイケアですね。午前10時から午後4時まで助産院で過ごしていただき、授乳や育児に関するご相談を受けたり、お母さんの休養をサポートしています。
産後ケア以外にも来所ケアという制度があるのですが、助産院にご来院いただいたお母さんから、授乳や育児のご相談を受けています。
ーー私も産後ケアで何度かお世話になりましたが、予約がとれないくらい人気ですよね。
川井:(ベッドが)1床しかないんですよね。
この助産院を始めるときに、一人ひとりに寄り添いたいという思いがあったのと、利用される方の中には他の方がいると利用しにくく感じる方もいるのではないかと思い、1日にひとりを受け入れるような施設にしています。
ーー川井さんは大学時代に看護学部を卒業されたとのことですが、その頃には助産師になりたいと考えていたのですか。
川井:そうですね。看護職にはつきたいと思っていました。
私が高校2年生のときに、姉が妊娠出産をしたんです。そのときに姉が結構悩んでいたり大変そうな様子を見て、こういう人をサポートできる仕事がしたいと思ってたどり着いたのが助産師で。
助産師の資格が取れるところに進学しようと思い、看護学部を選びました。
ーー当時、川井さんは高校生ですよね。実際に産後のお姉さんと接して、どのようなところが大変そうだと思ったのですか。
川井:姉は割と早く出産したんです。
離れて暮らしていたので詳しくは知りませんが、体力は大丈夫だけど、周りの心無い言葉に傷ついていたり、実家に帰ってきたときにどこか悲しそうだったりして。
幸せそうだけど大変そうな姉の表情を見て、つらそうだなと思った記憶があります。
高校生の頃の私は、妊娠も出産も幸せいっぱいなイメージだったので、そこに悲しみや何とも言えない苦しみのようなものがあることが、あまり理解できていなくて。その当時の自分が言葉にできないような感情を姉が経験してるんだと思ったときに、何かしたいと思いましたね。
それ以外にも助産師になろうと思ったきっかけはいろいろあったのですが、大元はそこかもしれません。
ーー大学を卒業されてまず病院で助産師として働かれたとのことですが、印象に残っていることはありますか。
川井:その当時はお産をやりたいという気持ちが強かったのですが、配属されたのが産後のケアをするフロアで、乳房のケアや授乳の相談を受けていたんです。
その病院は出産件数が2000件くらいある大きな病院で、流産や死産も多い病院だったんですね。NICUもあったり。双子の赤ちゃんも多くて、片方は元気に生まれるけれど、片方は亡くなるとか。週に何回も悲しい出来事があって、生まれたばかりの赤ちゃんにご焼香をして見送ったこともありました。精神的に過酷な環境で、周産期のグリーフケアを大切にしている先生もいました。
「こんなに悲しいんだ」と思ったのが、助産師になってからの一番最初の経験でしたね。
幸せいっぱいな人ばかりのフロアではないところにいたので、特殊だったのかもしれません。
東日本大震災をきっかけに地域の母子支援活動へ
ーーその後、地域の母子支援の活動もはじめたのですよね。病院勤務の頃からすでにはじめていたのでしょうか。
川井:第1子を出産後、いつ仕事に復帰するか悩んでいた頃に東日本大震災が起きたんです。
震災後、助産師会の方から一緒に活動しないかと声をかけていただいて、地域の母子支援活動を始めたという流れですね。
ーー震災がきっかけだったのですね。
川井:そうです。震災がきっかけですね。
震災が起こったとき、私は福島にいなかったんです。旅行で家族と沖縄にいたんですよ。だから私も子どもも大きい揺れを経験してなくて。
子どものことも守らなければいけないけれど、福島に戻って何かやらなきゃと真っ先に思ったんです。(被災した)赤ちゃんとお母さんが困ってるんじゃないかなって。そこに気持ちがいったんですよね。
(医師として働く)夫の仕事柄もありました。
ーー震災直後は、県外から福島に入れない状況だったのですか。
川井:入れなかったですね。当時の福島はライフラインが崩れていて食料もなく、戻ること自体が考えられない状況で。
幸いにも両親の住むところはライフラインが整っていたので、戻ることを決めました。震災から1週間以内には(福島へ)戻ったんです。
沖縄から東京を経由して。東京の友達の家に2日くらい滞在させてもらって、羽田から福島に入ることができたんですよね。
ーー陸路はやはり通れなかったのですね。
川井:そうですね。夫は絶対に戻らなければという感じだったから、じゃあ私も戻るって。子どもを連れて(福島に)戻りました。
ーー余震が起こったりしないか不安ですよね。
川井:そうですね。被爆の心配や余震がありつつも、当時は家族でいたい気持ちのほうが強かったんです。今の自分だったら、たぶん(福島に)戻らないかもしれません。あのときの自分だから戻ったんだろうなって。
ーー震災後、母子支援の活動内容に変化はありましたか。
川井:ありましたね。放射線の心配をされる方がとにかく多かった記憶があります。母乳中に放射線がどのくらい入ってるかとか、直接授乳していいかとか。
なので福島県助産師会で「ふくしまの赤ちゃん電話健康相談」を立ち上げて、母乳や被爆関連の相談を受けたり、母乳を送っていただいて検査機関に送る準備をしたんです。
でもそれと同じくらい、震災関係なく普通の相談も多くて。特に授乳の心配ですね。飲まなくなったとか、うまく飲ませられないとか、ミルクの量の相談とか。
災害時でもこのような相談が多かったのは発見でした。
ーー災害時も、日常は続いているのですね。
川井:そうですね。震災云々ではなく、お母さんたちはいろいろな悩みを抱えながら頑張っているんだなと気付かされました。
放射線が怖くて外出を控えている方が多かったので、引きこもらず少しでも安全に安心できる場所で過ごしてもらえるよう、ベビーマッサージの会を開催したりしました。
ーーそうした支援は2022年にゆりかご助産院さんを開業されるまで続けられたのですか。
川井:ここ(ゆりかご助産院)のオープンが2022年12月で。仕事内容は一緒なのですが、オープンする前の年に出張専門の助産院として開業届けを出して、訪問を続けていました。
その後に施設を作ろうかと思い、今のような施設型の助産院になったんです。
出張型から施設型へ。助産院という「場所」を構えた経緯
ーー個人で活動している助産師の方の多くが出張型で活動している印象があります。そんな中、施設という「場所」を構えることに対して、少なからず決断がいるのではと想像しました。川井さんが施設型の助産院をつくろうと思ったきっかけや経緯を教えていただけますか。
川井:当時、ふくしま助産所でも産後ケアをやっていたので、自分の出張にプラスして施設型の仕事もしつつ、正直なところ私は出張型の仕事で満足していたところがあって。
子どもと一緒に過ごす時間も好きだし、頑張っている夫をサポートしながら自分のできる範囲で仕事ができれば十分だと思っていて。自分で助産院を作るとしても、今すぐではないなという気持ちがあったんです。
でも私の前に夫がクリニックを開業すると言いまして(笑)
ーーそうなんですか!
川井:建設地を下見して設計に進む段階で、夫が「あのね、2階に助産院を作ろう」と言い出したんですよ。
「いや、すぐにはできないよ」と言ったのですが「作っておくといいよ」と言われて。ひと部屋でいいやと思い、5畳くらいのスペースを設計してもらったんですね。
そうしたら、5畳の部屋の隣に「ここにもうひとつ広いスペースを作って、他に和室も作っておこう」となったんですよね。
ーー川井先生のアイデアだったのですね。
川井:一番最初はそうですね。私もずっと会議に出ていたのですが、設計が大体決まって、申請を出す段階で、ちょっと待ってください、と。
「助産院をやるなら、将来宿泊(型の助産院を)やるかもしれない。やっぱり産後ケア、やろうかな」と言い出してしまって。
私が「産後ケア、やろうかな」と言った途端、みんなの顔が青ざめて(笑)
宿泊をやるには消防法などをクリアしなければいけないので、そのために窓を無理やり作ってみたりとか。いろいろ直していただいて、この形になったんです。
ーー実際にゆりかご助産院で産後ケアを利用させていただくたびに、ケアされる人に寄り添う施設だなと感じます。助産院がある2階のフロアには、お風呂もありますしね。
川井:お風呂は譲れなくて。
産後ケアをするなら、絶対にお風呂が必要と伝えたんです。利用者の方にゆっくりしてほしいからってお願いして作りました。
ーーこの建物の工事が始まったころから、よく目の前の道路を車で通っていたこともあり、何ができるのだろうとわくわくしていました。
川井:そうなんですね。
私、実は建築現場を月に1度くらいしか見に来ていなくて、人づてに「ここまでできたね」と教えてもらって初めて知ることが多かったんです。建築の先生からは進捗の連絡が来ていたのですが、(建物が)できていく様子を見るのは、わくわくしたかもしれないですね。
私が言うのは変かもしれませんが、来るのが楽しくなるような施設になればいいなと。せっかくだったら少し嬉しい気持ちで利用してほしいと思うんです。
まだまだケアは不足してますが、利用者の方にはそのように思ってもらえる施設にしたいと思っています。
ーー家にいるみたいで落ち着く空間ですし、気分が上がりますよね。
川井:よかったです。(産後ケア)まだ使えますよ。
ーー子どもが1歳になるまでは利用できると聞いた気がします。ぜひまた利用したいです。
川井:誕生日の前の日までですね。以前、お母さん単独でも使えるのかどうか市に聞いたことがあって。
その時の担当の方は、使えますよと言ってくれたんですよね。
ーーそれは嬉しいですね!
産後ケアを入り口に、周産期の女性に寄り添いたい
ーーちなみに産後ケアを利用される方は月にどのくらいいるのですか。
川井:今は12組前後ですね。週3回受け入れを目安にしているので、1ヶ月に大体12名くらいですかね。
最近は少し余裕がなくて家庭訪問に行けていないのですが、産後ケアをしていない日は助産院に来ていただいて、授乳の相談や卒乳、断乳のケアをすることが多いです。
ーー産後ケアは一般的に認知されてはいるものの「自分はケアを利用するほどつらくはないのでは」と利用を踏みとどまる方もいるのではないかと思います。そのような方とは、ベビーマッサージや授乳相談をきっかけにケアに繋がることもあるのですか。
川井:まさにその通りで。
何らかのきっかけがないと広場に行くことが難しい方もいると思うので、ベビーマッサージが助産院に行くきっかけとなって、ケアが必要な方とつながることができればいいのかなって。
先ほども、以前ベビーマッサージに来てくれた方から「そろそろ離乳食とか卒乳の相談をしたいので、もう一度産後ケアを使いたい」というご連絡をいただきました。
ーー実際に産後ケアを利用した方からは、どのような感想をもらうことが多いですか。
川井:「また来たい」と言ってくださる方が本当に多いです。安心して利用してもらえたのかなと思いますね。
あとはお子さんが0歳の頃に産後ケアを利用してくれた方で、1歳を過ぎたとき、様子を教えてくれる方もいて。
「(0歳代を振り返って)すごく不安だったけれど、ここに相談すれば大丈夫というお守り代わりになっていた」と言っていただきました。
ーー素敵ですね。
川井:そうですね。本当によかったなと思います。
実際、産後ケアを利用した方の感想は実施主体の市に入るので、利用者の方から直接感想をいただく機会はあまりないのですが、(市からは)「(利用者の方が)よかったと言っていたよ」と言っていただきました。
ーー今後川井さんがやっていきたいこと、実現したいことはあるのですか。
川井:まずは産後ケアを安定してお届けしたいと思っていて、そのために組織を見直す必要があるとは思っています。
あとは、今さらと思うかもしれないのですが、もうひとつ、すごくやりたいというか、やらなくてはいけないと思うことがありまして。
先ほど言葉も出てきたと思うのですが、周産期のグリーフケアをやりたいんです。
というのも、助産師として働きはじめて1、2年目に、亡くなった赤ちゃんを前にお母さんが放心している状況を見たりとか。亡くなっている赤ちゃんにかわいいお洋服を着せてあげて、一緒に寄り添って赤ちゃんを見送ることができたとき、達成感ではないかもしれないですが少し「やれたな」と思うことができたんです。
あとは私自身が不妊治療や流産、不育症でつらい経験をしてきたことも理由のひとつです。
今、16歳と7歳の子どもがいるのですが、助産師をやめようかと思ったくらい、2人目の不妊治療がつらかったんです。流産を3、4回して。
回数をあまり数えたくなくて、大体になってしまいます。
グリーフケアをやりたいと思ったのは、過去の自分自身を慰めたいというのもありますが、同じようにつらい思いをしたお母さんたちに向けて、何かできないかと考えていて。
流産や死産、人工中絶なども含めて、周産期に悲しい別れをした方たちの心が少し軽くなるような支援ができたらいいなと思っています。
実は産後ケアの施設を作る前、何をやろうかなと思ったときに、まず最初にグリーフケアをやりたいと思ったんです。でも最初からグリーフケアをやるのはハードルが高いし、きっと安心してアクセスしてもらえないだろうから、助産院と産後ケアを踏み台にしようという気持ちも少なからずありました。
ーー大変な経験をした方全員が、最初から心のうちを話してくれるわけではなさそうですよね。
川井:そもそも「助産院」という言葉に傷つくかなとも思ったり。
でも助産院を利用してくださる方で、打ち明けてくださる方もいたりします。家庭訪問の時、亡くなった赤ちゃんの写真が置いてあることも。
亡くなった赤ちゃんの名前とお花が飾ってあるご家庭で「もしかして」と声をかけると「気づいてくれたんですね」と返してくれることもあって。
私は特別に何かを持っているわけではないし、できるわけでもないけれど、聞くことだったらできるかもしれないと思うんです。
なかなか声に出せないようなところに寄り添えたら、という小さい夢があります。
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学生時代から、社会的・個人的に不安を抱えている人の力になりたかったと川井さんは語ります。
「当時から、マタニティブルーの勉強会に参加していたんです。その勉強会を主催していた方が『ママブルー』という会を主催されていて。ブルーな気持ちにアクセスしたくなってしまうのは、だからかもしれません。20年前にも「産後うつ」という言葉はあったのですが、今のようにメジャーではありませんでした」
助産院と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、あたたかみのある色ではないでしょうか。
ゆりかご助産院の壁色が青である理由を尋ねると、インタビューで伺った川井さんのこれまでの経験や思いと重なる部分が。
「青は私が個人的にいちばん好きな色なんです。好きな色でもあるし、悲しみにも寄り添うことができる色なのかなと思っています。育児をしていると、ブルーになったり、落ち込んだり、嫌になることもあると思うんです。赤ちゃんがかわいくないと思ったり、悲しい思いをした人もOKって。そういう気持ちもあるよねって」
「妊娠中期で中絶した方に、私実はグリーフケアがやりたくて、と打ち明けたとき、(ブルーの壁紙というのが)わかる気がする、と言ってもらえたんです」
ゆりかご助産院の落ち着いたトーンのブルーの壁紙は、ポジティブな感情だけでなく、ネガティブな感情の存在も「そこにあっていいんだよ」とみとめてくれるように感じました。
<聞き手・文・写真=risa>
関連リンク
ゆりかご助産院 公式HP:https://fukushima-komorebi-cl.jp/yurikago/
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